陰の演技者を思いやる

森繁久弥さんは遠い下積みの昔、舞台で「馬の足」を演じたことがあるという。馬上の役者にいい気分で芝居をしてもらおうと、馬の胴に香水を振りかけたという芸談が残っている。馬の足にも苦心があり、工夫があるのだろう。
◆このほど、創刊50周年を記念して復刻された「週刊新潮」の創刊号をひらき、短い文章に目を留めた。いまは亡き歌舞伎俳優の二代目尾上松緑さんが、読者にあてて「名馬を求む」と書いている。
◆馬の足を演じる役者が足りなくて困っている。経験者は大歓迎、未経験者は「身体強健にして演劇的カンのある人」を望む、と。「演劇的カン」に恐れをなして応募をためらった未経験者がいたかも知れない。
◆頼りになる馬の足がいて、馬上の名優もいい芝居ができる。そうやすやすと誰にでもつとまる仕事ではありませんよ。言外に語る松緑さんの求人案内には、馬上から日のあたらぬ功労者に寄せた慎み深い敬意がにじんでいる。
◆芝居の舞台に限らず、どこの世界にも、馬上の人を少しでも引き立てようと苦心する若き日の森繁さんがいるだろう。馬上から、労多くして報われることの少ない陰の演技者を思いやる松緑さんがいるだろう。
◆馬上のみを崇拝し、下で支える人をあざ笑う。当節のはやり「勝ち組」「負け組」の色眼鏡には映らない心の糸もある。  【2月22日付 読売新聞 編集手帳