気負わず付き合っていく

付きまとう「余生」の感覚  作家 眉村 卓

 妻が亡くなって、今年で九年目になる。発病から数えると、十四年目だ。
 最初の入院・退院の後間もなく私は、毎日、短い小説(ショートショートと言ってもいい)を書きはじめた。ここで詳しいことを書く余裕はないが、妻を一番目の読者としての新作である。妻が面白がってくれそうなものをと心掛けた。ずっと読んでくれたが、迷惑だったかもしれない。
 妻が死んで、それはおしまいになった。書くこと自体に張り合いもなくなった。長い結婚生活だったのだ。しかし生きてゆかなければならない。漂流の感じを経て、私は少しずつ創作活動を開始した。そしてそこには、「余生」の感覚が付きまとっていたのは、否定できない。妻が他界したとき、私は六十七歳だったのである。
 とはいえ、月日が経つうちに、私は独り暮らしに慣れ、頑張らなければならないなと思うようになってきた。同年の連中が、「お前、余生だなんて何を言っているんだ。われわれ、これからじゃないか、これから」と、はっぱをかけてくれたことも大きい。
 その、毎日短い話を書いていたことが、このたび劇場映画になった。有名俳優が夫婦役を演じているのである。三十代の美男美女なのだ。ま、六十代のくたびれ老夫婦の話では、ろくに観客は来ないだろう。映画を見るのは不思議な気分であった。妻の死後年月が経っており、演じているのが若い男女だから、自分自身の記憶や思いとあまり重ならなかったせいだろうけれども、妙な言い方ながら、きれいなお話になっているなあ、という気がしたのである。それに、映画の夫婦には子供がいないことになっているから、全体がすっきりとまとまり易かったのだろう、とも思った。
 が。
 映画を見た後私は、ふと、つまらぬことを考えたのであった。私は妻の死後、余生に入ったのだと感じていたが、映画の夫婦の場合、若いのである。あの夫はまだまだ体力もありこれからという年頃なのだ。余生などというものではなく、さらに一段と大きな仕事をする可能性がある。それが、亡くなった妻とどうかかわることになるかは別の問題として、これからじっくりと腰を据えて頑張るのであろう。それに比べてこちらは、もはや二十年とか三十年の月日は残っておらず、体力も気力も乏しいのである。やっぱり余生は余生なので、あまり気負ってはならないのであった。
 【1月23日付 公明新聞 ことばの玉手箱より】

 今、「僕と妻の1778の物語」という眉村氏の実話をもとにした映画が上映されている。
 小説ではないが私も妻が入院中、御書の一節や先生の指導を毎日メールしていた事を思い出した。