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 神谷選手「銀」アーチェリー
 【北京=藤田真則】北京パラリンピック8日目の13日、アーチェリー女子のコンパウンド個人で神谷千恵子(48)が銀メダルを獲得した。
 弦を引く力が弱くても矢を放てるコンパウンドは今大会から採用された種目。パラリンピック初出場の神谷選手は準決勝に落ち着いた様子で臨み、1射目でいきなり的の中心に命中させると、その後も大きなミスをせず、得点を積み上げた。
 北京出場を「思いがけない出来事」と神谷選手。次のロンドンを目標に、経験を積むつもりで臨んだ国内の代表選考会で勝利し、切符を手にした。
 神谷選手は21歳でリウマチを患い、左手首が動かない。自力で歩けるものの、下半身も不自由だ。障害者が集まるスポーツセンターでリハビリ中だった2000年、初めて25mを泳いだ。
 同じころ、テレビでシドニーパラリンピックを見て「自分も出たい」と始めたのがアーチェリーだった。初心者コースで2〜3m先の的に矢を当ててほめられ、的を射抜く快感に魅せられた。
 40歳を過ぎて出会ったアーチェリーで、無我夢中で世界の舞台に駆け上がった。「何か始めるのに遅すぎることはない」ことを銀メダルで証明してみせた。
 【9月13日付 読売新聞 夕刊より】

 二人で成長を
 … 発病から2年半。真剣な唱題に励むなか、病状は落ち着き、仕事復帰を果たす。84年には貴夫さんを折伏し、結婚。実加さんという子宝に恵まれ、幸せな生活を送れるかに思えた。
 ところが今度は、1歳8ヶ月になった実加さんに、「脳性まひ」が発覚する。
 脳性まひとは、出生前後に起きた、脳の何らかの障書による運動能力の異常を指す。
 自身の病に加え、障害児を抱えることになった神谷さん。その落胆ぶりは、激しかった。
 だが夫は、「一家の宿命だから、一緒に乗り越えていこう」と声を掛けてくれた。学会の先輩も、「信心で宿命を乗り越えるのよ。必ず、幸せはやって来るから」と励ましてくれた。
 神谷さんは誓った。"実加と一緒に、強くなろう。二人で、負けない心をはぐくもう"
 神谷さんの病状は一進一退。寝たきり状態になる時や、頸椎にまで痛みが発症する時期もあった。97年(平成9年)には、障書者に認定された。
 懸命に御本尊に祈るなかで、"原因不明の病気でも、心は絶対に負けない"と決意。学会活動に挑戦した。
 関節の痛みで歩くのが困難な時期もあったが、特別支援学校への、送り迎えは休むことなく続け、娘のリハビリにも全力で取り組んだ。夫のサポートも、大きな力になった。

 一番を目指せ

 2000年4月。病状が悪化し、歩くことも、車を運転することも、つらくなる。リハビリを兼ね、近隣の障害者スポーツセンターで水中歩行を始めた。
 周囲の障害者が、果敢にスポーツに励む姿は、とても印象的だった。
 そのころ、行われていたシドニーパラリンピックを見ていると、神谷さんにも、ふつふつと闘志がわいた。「"私も何かで、一番を目指したい"。日ごろの婦人部での薫陶のおかげで、決意できたんです」
 1年後、スポーツセンターで偶然、アーチェリーに出合う。放たれた矢が、遠くの標的に当たった時の爽快感に魅了された。
 実は神谷さん、病気になる前から運動が苦手だった。しかも、手に障害のある神谷さんにとって、手先の繊細な動きを求められるアーチェリーは、難度の高い競技だった。ましてや41歳。当初は、趣味のつもりだった。
 だが、練習に励むうちに、夢中になり、02年に全国障害者スポーツ大会で優勝を果たす。
 その2年後、娘は授産施設に通うように。仕事を始めたことにより、自立心が芽生えたのか、自宅の手伝いを行うようになった。
 そうした娘の姿に、"実加も病に負けず、成長している。私も、もっと成長しよう"と、あらためて決意する。
 心に刻んできた、池田名誉会長の指針――「負けないということが勝利と栄光への基盤であることを忘れてはならない」を胸に、さらに努力を重ねた。 ―― 略 ――
 【9月13日付 聖教新聞 5面より抜粋】