第34回「SGIの日」記念提言 13-2

◇「人道的競争へ 新たな潮流」-VOl.2

経済至上主義がもたらした社会の閉塞感
           暴力と惨劇の轍を踏まない解決を

人間の正視眼が見失われた社会
 現今の金融危機、経済危機の経緯に目をやる時、時流は、ある種の「抽象化の精神」にからめとられてはいないでしょうか。「貨幣」の抽象性、非人称世界に住するメドゥサ〈注1〉の魔力の餌食となって、それを、人間社会に不可欠なものではあっても、あくまで約束事、バーチャル・リアリティー(仮想現実)にすぎないと看破する、「人間」としての正視眼を失い、貨幣への「崇拝」あるいは「呪詛」といった「情念」に目をくらまされてはいないでしょうか。
 拝金主義とは、いうまでもなく「崇拝」の産物であり、「貨幣」という物的欲望を超える欲望の虜になって、会社に例をとれば、その社会への貢献といった"公"の側面など無視して、短期的な利益にしか関心のない株主の"私"意向が最優先され、経営者、従業員、顧客・消費者などへと広がる具体的な人間の繋がりといった人称世界の具体的な事どもは、二の次、三の次として、捨象されてしまう。――不本意ながらもそういう嫌な役回りを演じざるをえなかった、という良心的経営者の嘆きの声が、世界の各地から聞こえてきます。
 「全体人間」であって初めて、真に人間たりうるという人間の条件を忘失し、「抽象化の精神」の化身ともいうべき、貨幣的価値しか念頭にない「経済人」(ホモ・エコノミクス)へと、それとしらず身を眨めてしまっている――金融主導のグローバリゼーションは、その種の人々を、おびただしく輩出してしまった。
 グローバリズムと反比例するかのような人々の閉塞感は、"利"に目が眩み、「私は、私と私の環境である」(A・マタイス/佐々木孝訳『ドン・キホーテに関する思索』現代思潮社)というオルテガ・イ・ガセットの不朽のテーゼなど我関せず、自然環境や文化環境(由緒ある町並みや地域コミュニティーなど)を破壊しておいて、なおかつ人間社会が存続し得るかのような錯覚に陥っている傲慢なエゴイズムの、自ら招き寄せた末路とはいえないでしょうか。
 もとより「経済人」といっても特定の人間を指すのではない。資本主義そのものに内蔵されているベクトル(力の方向性)の所産であって、株主は当然のこと経営者や従業員、顧客・消費者といえども、資本主義が純化されてくればくるほど、そのベクトルに従わざるをえなくなる。従わなければ、少なくとも短期的には損をする。


資本主義の暴走が招いた社会の混迷
 『勝者の代償』以来、ニュー・エコノミー(現代資本主義)の行き過ぎた動向に警鐘を鳴らしてきたロバート・ライシュ氏(クリントン政権時の労働長官)は、近著『暴走する資本主義』(原題は『超資本主義』。雨宮寛・今井章子訳、東洋経済新報社)で、「全体人間」の帯びる多面的性格を、端的に「投資家」「消費者」の側面と「市民」の側面との二つに要約し、「厄介なことに、私たちはほとんどみな二面性の持ち主なのだ。消費者や投資家としての私たちは有利な取引を望むが、市民としての私たちはその結果もたらされる社会的悪影響を懸念する」と指摘しています。
 肝心なことは、両者のバランスをどうとるか(全体人間たろうとするか)にあるが、「超資本主義」の下では「消費者と投資家が権力を獲得し、市民が権力を失ってきた」と。
 その結果もたらされたのが、資本主義の優位と民主主義の劣位であります。そこを席巻する拝金主義という一元的価値観が、世界的に所得格差の拡大、雇用の不安定化、環境破壊など、資本主義の負の側面を増進させてしまった。
 それどころか、最近の金融危機、経済危機は、正の側面である富の拡大という面でも、実体と乖離した胡散臭いものではないかという疑念を満天下にさらしてしまいました。
 規制緩和や技術革新を追い風に順風満帆のように見えたグローバリゼーションも、今や世界同時不況という台風並みの逆風にさらされています。自由競争に任せておけば、市場は万事うまく運ぶといった予定調和的な行き方の破綻は、誰の目にも明らかなのですから、かつてない難局への対応は焦眉の急を告げています。
 金融資本の目にあまる暴走には、ブレーキをかけねばならないし、企業実績の急激な落ち込み、それに伴う雇用情勢の目を覆うばかりの悪化は、可能な限りでの大胆かつ迅速な対応(財政、金融面での支援、セーフティーネットの整備など)が急務であることは論を待ちません。
 特に私どもが忘れてならないのは、今日の国際情勢を覆う貧困の問題です。それは、職業という人間の根源的な営みを脅かし、生きる意味、目的、希望など、人間の尊厳、社会の存亡に関わるものだけに、総力を挙げて取り組んでいかなければならない。今こそ、大所高所に立った経綸の才が求められていること、特に政治家は、自覚すべきであります。グローバル資本主義という暴れ馬の手綱を引き締める役割は、何といっても「政治」や「国家」に課されるところ大であるからです。
 同時に、「国家」による統制、コントロールに期待する余り、万が一にもファシズムの台頭を許した1930年代の轍を踏むようなことがあってはならない。その意味からも私は、マルセルのいう「抽象化の精神」の警鐘に耳を傾ける必要があると思います。


「呼称」が先行し独り歩きする弊害
 日本では、グローバリゼーションの「負」の現象として、「格差社会」や、「勝ち組」「負け組」といった嫌な言葉が飛び交っています。
 いうまでもなく、昨今のように生活が脅かされる人々が続出する事態は一刻も放置できず、何らかの対応が必要不可欠なること、繰り返すまでもありません。それと同時に留意すべきは、これらの現象を十把一絡げに、抽象的な「呼称」で括ってしまうと、個々の努力といった人間の具体的な事実の世界が見えにくくなってしまうということではないでしょうか。
 どんな境遇に置かれようと、社会状況が厳しくとも、外的条件にのみ依存するのではなく、気力を奮い起こして壁に立ち向かっていく多くの人たちの実像は、そうした「呼称」からはほど遠い。
 勝ち負けといっても、永遠に続くものではなく、またそれらの「呼称」が、経済至上主義的な価値観から一歩も出るものではなく、全人格的価値観を覆うに足らずと、勝って傲らず負けて挫けず、毀誉褒貶を眼下に見ながら、悠々と生きている人々を、有名無名を問わず、社会は数限りなく有しているはずであります。
 十把一絡げな「呼称」があまりにも頻繁に使われると、そうした人間としての価値や尊厳性、創意工夫をこらし、苦難に立ち向かおうとする気概や勇気を矮小化し、それに水を差す結果をもたらしかねないのではないでしょうか。
  その結果、マルセルのいう「何か最後の審判の雛型みたいなものを見ようとする弱い精神」(前掲『マルセル薯作集6』)、人間性に背を向けた、他力本願的な暴力志向への誘い水になってしまいはしないかということを恐れるのであります。
 13年前、アメリカ経済が"我が世の春"を謳歌していた頃、『ニューズウィーク』誌(日本版、 96年2月21日号)は、「理想の社会はどこに」との特集の冒頭で、「うまくいっているのに、誰もが不満をもっている。それが私たちの時代のパラドックスだ」と書き起こしていました。
 専ら金銭的収入の多寡という物差しでしか、人間的価値の優劣を論ずるしかない経済至上主義、拝金主義の地平には、原理的に"自足"はありえません。
 常に何がしかの怨念――不満や羨望が渦巻き続け、それは、社会を停滞させる"嫉妬社会"の温床であります。
 語句の解説
〈注1〉メドゥサ
 ギリシア神話に出てくる3人姉妹の怪物ゴルゴンの1人。頭には髪のかわりに蛇が生えるという醜怪な容貌で、目には人間を石にしてしまう力があった。英雄ペルセウスはメドゥサを見ないようにするため、磨いた盾にその姿を映しながら近づき、首をはねた。
〈2009-1-26〉

 【大白蓮華 2009-04 P108〜P134 抜粋】


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