2009.09巻頭言

人生は勇気で勝ちまくれ



   今日もまた

        立ちゆく勇気を

              忘るるな
         幸福家族の
             門はここにと


 南米アルゼンチンの民衆詩人ホセ・エルナンデスは叫んだ。
 「危難にあっても、さあ、来いと、私の心は更に大きくなる」
 人生は試練との戦いである。いわんや、偉大なる使命の実現の前に、険しき壁が立ちはだかることは、当然といってよい。
 その壁に挑むか。引き下がるか。突破力は勇気から生まれる。仏法は、勝つための究極の勇気を、万人の心に奮い立たせゆく信仰なのだ。
 御聖訓には、「畜生の心は弱きをおどし強きをおそる当世の学者等は畜生の如し」(御書P957)と喝破されている。
 臆病な生命であれば、どこまでも、傲れるものに恐れへつらう畜生道の流転を繰り返さざるを得ない。それは永劫に悔いを残す敗退である。
 「賢者はよろこび愚者は退く」(御書P1091)。何ものにも臆さぬ賢者の生命を、金剛に鍛え上げる。そのために、今日も前進だ。今日も勇敢に生き抜くのだ。


   大闘争
      喜び勇んで
        指揮とれや
      勝ちまくりたる
            歴史残せや


 法華経の涌出品第十五で、地涌の菩薩が出現するのは、いかなる時か。それは、宝塔品第十一で「六難九易」が明かされ、勧持品第十三で「三類の強敵」の迫害が示された後なのである。
 すなわち、広宣流布とは、どれほど厳しく、どれほど激しい大闘争であるか。それを大前提として、地涌の菩薩は喜び勇んで踊り出てくるのだ。
 だからこそ、有名な「大悪大善御書」には明確に仰せである。
 「大悪をこれば大善きたる、すでに大謗法・国にあり大正法必ずひろまるべし、各各なにをかなげかせ給うべき」「上行菩薩の大地よりいで給いしには・をどりてこそいで給いしか」(御書P1300)
 ここに躍動する喜びとは、広宣流布のために、師匠と共に戦う喜びに他ならない。師と苦難を分かち、大悪をも大善に変えゆく共戦の誇りなのだ。
 師弟不二の勇気で「使命の舞」「正義の舞」そして「勝利の舞」を断固と飾る。これが、学会精神の真髄だ。


    恐れなく
      大師子王の
          心持ち
      人間王者の
         誇り持ちゆけ


 日蓮大聖人は、大難と戦う弟子一同に厳命なされた。
 「各各師子王の心を取り出して・いかに人をどすともをづる事なかれ、師子王は百獣にをぢず」(御書P1190)
 ないものを出すのではない。もともと、広宣流布の闘士の生命に「師子王の心」は厳と具わっている。それを「取り出す」のだ。創価の友の生命の本地が、いかに偉大であるか。いかに尊貴であるか。皆が師子王なのである。
 大聖人は末法万年の一切衆生の救済を願われ、「師子奮迅之力」で御本尊をお認めになられた。その御本尊に、我らは妙法を唱え祈っている。仏に等しい「師子奮迅之力」が全生命に脈々と漲ってこないわけがない。
 ゆえに、師子の如く走り、師子の如く吼えるのだ。師子の如く戦い、師子の如く勝ちまくるのだ。ここに「仏法勝負」の証しがある。弟子の報恩の道がある。
 わが師である戸田城聖先生は、常に教えられた。
 「完全無欠の仏法である。全部、必ず勝てるのだ。妙法の偉力というものは、何ものも遮ることはできない。すべてを吹き飛ばしていけ これでもか、これでもか、と戦っていくのだよ
 仏法では「内薫外護(内より薫じ外より護る)」と説かれる。内なる仏性を勇敢に薫発すれば、それは外からの諸天の加護となって、必ず現れる。
 あの昭和三十一年の「大阪の戦い」で、私が強盛に祈り抜いたことは、全関西の衆生を一人でも多く味方にしていくことであった。
 アイダホ大学のガイヤ名誉教授は、我ら創価の勇気を讃えて、「真の勇気なくして、思想や文化の差異を持つ人々との交流はできません。この勇気こそが平和を開き、築くための源となるのです」と語ってくださった。
 創価の勇気の勝利が、平和を前進させる。正義を拡大する。
 アメリカ独立革命の英雄ジョーンズ提督は、絶体絶命の窮地で雄叫びを上げ、大逆転の勝利を開いた。その不滅の師子吼を、私は創価の大英雄に贈りたい。「戦いは、これからだ


     決然と
       創価の勝利を
          晴れ晴れと
       勇気と正義で
            断固と築けや