2010.03巻頭言

未来の勝利は「今」にあり


 全世界
   広宣流布
      雄叫びは
    輝く太陽
       昇らむ姿と


 「今日、種を蒔く勇気を持つ者が、明日、その果実を収穫する」
 南米アルゼンチンの人権の闘士・エスキベル博士は青年に語った。私が共に対談集を発刊した、戦う知性である。
 過去がどうあれ、これまでがどうあれ、くよくよと囚われる必要はない。大事なことは、今、いかなる種を蒔いていくかだ。
 御聖訓には、「命已に一念にすぎざれば仏は一念随喜の功徳と説き給へり」(御書P466)と仰せになられている。
 何があろうとも、南無妙法蓮華経と唱えゆくならば、その時その刹那から、わが生命に元初の太陽が鮮烈に昇りゆくのだ。
 いつかではない。まさに「今」この時に、自分自身の一念を変える。命を革める。これが「人間革命」の喜びである。
 未来の勝利は「今」にあり。すべては「今」から始まる。


 共々に
   元初に誓いし
      同志なば
   恐るるものなし
       勝利 勝利と


 「能」を確立した芸術の巨人・世阿弥は、常に「上手な人でさえ慢心があっては芸力が低下してしまうだろう」と戒めた。
 そして法華経の一節「未だ得ざるを得たりと謂い、未だ証せざるを証せりと謂えり」を引いて、弟子の増上慢を叱咤していた。
 人生の万般において、慢心は向上を止める。油断は大敵だ。個人も団体も、傲りから衰退が始まる。これは歴史の教訓だ。
 師弟とは、永遠に増上慢の命を打ち破って前進し、勝利する力である。
 三類の強敵との戦いを示した法華経の「勧持品」には、サンスクリットで「絶えざる努力」という意義がある。魔も絶えず動いている。だからこそ、地涌の菩薩はそれ以上の「絶えざる努力」で戦い続けるのだ。月月・日日に強く より強く
 恩師は叫ばれた。「人間は進みに進んで、勝つために生まれてきた。信心とは、急速に良く変わっていくための実践である」

 偉大なる
   歴史を綴りし
      母なれば
    三世の福徳
       不滅なるかな


 あの佐渡流罪の大難の折、多くの臆病な弟子が師を裏切り、退転した。その中で、蓮祖が「いままで・しりぞかせ給わぬ事申すばかりなし」(御書P1224)と讃えられたのは、けなげな母たちであった。
 昭和三十一年の五月、荒れ狂う障魔をものともせず、大阪支部の同志は、私と共に祈った。走った。戦った。そして、一カ月で一万一干百十一世帯の折伏という、未曾有の金字塔を打ち立ててくれた。
 この時、経済苦と病苦のどん底から立ち上がった自らの功徳を語りに語って、七世帯の弘教を実らせた女性がいる。その後も一人また一人と大法を弘通し、八十七歳の今、三百世帯を超えている。「仏法流布の使命を果たさせてくださいと祈ると、新しい友に出会えるのです。信心の喜びを語れば、ますます楽しくなります。妙法と師弟があれば負けません」と微笑まれる。
 あまりにも偉大な母たちが一心不乱に戦い抜いて、築き上げた常勝関西なのである。
 この尊き父母の金の汗が光る創価の城は、今や、世界に平和と文化と教育の希望の春風を広げている。この人類の宝の大城を、後継の青年部は断固として勝ち護っていくことだ。これ以上の価値ある青春はない。
 戸田先生の言葉が蘇る。「私は、本当の広宣流布の闘争人に会いたい。いや、本当の闘争人になってもらいたいのだ。これが、広宣流布の師弟の誓願であるからだ」
 「三・一六」は、その永遠の誓願の原点である。新たな勝利への出発である。
 開目抄には「ちかいし願やぶるべからず」(御書P232)と仰せである。
 師弟の誓いに立ち返るならば、何も恐れるものはない。何も惑うことはない。
 「大聖人の如く」、そして「牧口先生の如く」「戸田先生の如く」無量無辺の勇気と力が湧き起こってくるではないか。
 さあ、弥生三月だ。共々に、今から未来へ、今日より明日へ、いよいよ希望に燃えて、広布と人生の完勝の種を蒔こう


 久遠より
   未来に生きなむ
        この人生
   使命を胸に
      勝ち抜け 生き抜け

 本日、一件納品が終わり、久しぶりのUPです。