第34回「SGIの日」記念提言 13-6

◇「人道的競争へ 新たな潮流」-VOl.6

身近な地域を足場に世界へ思いをめぐらす  「健全な生命感覚」の復権

大老土井利勝にまつわる故事
 その意味からも、私は牧口会長の『人生地理学』(以下、『牧口常三郎全集第1巻』第三文明社。現代表記に改めた)の方法論、アプローチに着目したい。呼称からしてユニークであります。「自然地理」や「人文地理」に比べて、「人生地理」という語感は、はるかに具体性の世界のリアリティー――政治、経済、社会、文化、教育、宗教など人間生活全般にわたる厚みと深さと広がりを含意しております。牧口会長が執筆のモットーとして、吉田松陰の「地を離れて人無く人を離れて事無し、人事を論ぜんと欲せば、先ず地理を審にせさるべからず」との言葉を掲げている所以であります。
 さらに、最も刮目すべきは、具体性の異名ともいうべき地域性に、徹して軸足を置き、そこを抜きにしていかなる地平も展望も拓けてこないとする「内在的普遍」のアプローチであります。その中に次のような一節があります。
 「広大なる天地の状態は、実に此猫額大の一小地に於て其大要を顕わせり。されば万国地理に現わるる複雑なる大現象の概略は、粗ぼ之を僻陬の一町村に於て説明すること難からず。既に一町村の現象によりて郷土の地理を明にせんか、依て以て万国の地理を了解すること容易なり」と。
 たとえ猫の額ほどの「小地」であっても、その地域性にこだわり、そこに生き、観察し、解明していくならば、そこから一国ひいては全世界の事どもの考察へと広がっていく、とされているのであります。
 牧口会長は、その広がりをあくまで具体的事例に即して、次のような江戸時代初期の政治家・土井大炊頭利勝にまつわる故事を紹介しております。
 ある時、唐糸の切れ端が落ちているのを大炊頭が見つけ、ある家来に預けておいた。たがが糸屑、と笑う者も多かった。何年か後、その家来に存否を尋ねると、大切に保管してあった。大炊頭は、その功を多として300石を加増して、周囲にこう諭した。
 ――この糸は、唐土(中国)の農民の手にて桑を取り、蚕を飼い養い、糸となし、唐土の商人の手にわたり、はるかの海上を経て、わが邦へ渡り来たり、長崎表の町人の手にかかり、さては京大阪のものども買い取り、ついに江戸まで下り候ものなれば、その人力いかばかりかとおもうぞ。さようの辛労にてできしものを、少しなればとて、塵芥となしてすつるというは、天道のとがめ、おそるべき事なり、と。
 唐糸の切れ端から、遠く唐土の桑畑で働く農民の労苦へ――まさしく「内在的普遍」そのもののアプローチといえましょう。一足飛びに「大現実」へと飛躍するのではなく、身近な「一小地」という具体的世界に足を踏まえ、そこに徹し、こだわり抜くことによって「大現象」へと自在に連想をめぐらせてゆく。こうした瑞々しい想像力というが生活感覚、生命感覚の人にとって、近しい人はもとよりのこと、見ず知らずの異国の住人であっても、否、風土、産物さえもが、親密な「隣人」としてあるにちがいない。その彼にとって、人間や国土を殺傷破壊し尽くす戦争など忌むべき存在以外の何物でもなく、最も縁遠いものであるはずです。
 話は少々飛びますが、日露戦争の頃のエピソードを一つ紹介したい。
 ある日、ロシア人の捕虜が二人捕らわれてきた。初めてのことで珍しかったため、見物にいこうということになったが、反対する者もいた。そこで中隊長が理由を尋ねたところ、ある兵士がこう答えた。
 「自分は在郷のときは職人であります、軍服を着たからは日本の武士であります、何処のどういう人か知りませぬが、敵ながら武士であるものが運拙く捕虜となって彼方此方と引き廻され、見世物にされること、さだめて残念至極でありましょうと察せられ、気の毒で耐りまぜんから自分は見学にいって捕虜を辱しめたくありません」(長谷川伸『日本捕虜志』上巻、中央公論社)と。
 ルーマニアブカレスト大学での講演(1983年6月、「文明の十字路に立って」)で言及したものですが、この兵士の感受性のベースになっているのは、職人としての生活感覚であります。その健全なる生活感覚、そこに宿るヒューマニティ−が、敵である異邦人を、マルセルいうところの「隣人」たらしめている。
 戦争を肯定する訳では毛頭ありませんが、大地に根を下ろした強靭なる人間性の凱歌の証しは、"時"と"場所"を選びません。
 流刑囚を「罪人」扱いせず、「不幸な人」と呼んだシベリアの民衆の人間愛を、ドストエフスキーは生き生きと描き出しています(小沼文彦訳『ドストエフスキー全集第4巻』筑摩書房)が、彼らシベリアの民にとっても、流刑囚は、悪人でも忌むべき存在でもなく、あくまで「隣人」なのでした。


人間不在の転倒を乗り越える道
 まず身近な具体的なところから始まり、一歩そしてまた一歩と、四囲を「隣人」たらしめる人間連帯の間断なき構築作業――ここに平和への王道があり、この地道な積み重ねなくして、恒久平和の地平など望みうべくもありません。
 そうした感受性、生活感覚の共有こそ、「内在的普遍」ということの内実なのであります。マルセルいうところの「抽象化の精神」に毒されることのない具体性の世界の実相なのであります。そして、そのような精神性、ヒューマニティ−の潤しゆくところ、「抽象化」の病理は駆逐され、「イデオロギー」によって「人間」が、「目的」によって「手段」が、さらには「未来」によって「現在」が……約めていえば「抽象的存在」によって「具体的世界」が犠牲にされ、生贄されるような人間不在の転倒は、決して起こらないにちがいない。
 そこに立ち現れてくるのは、「貨幣」のような抽象的かつ非人称的な存在が、わが物顔に振る舞う社会ではなく、「生命」や「人間」といったバーチャル(仮想的)ではない真実のリアリテイーにスポットが当てられる、ヒューマニティー溢れる時代であり、世紀であると、私は確信してやみません。
〈2009-1-26〉

 【大白蓮華 2009-04 P108〜P134 抜粋】