第34回「SGIの日」記念提言 13-5

◇「人道的競争へ 新たな潮流」-VOl.5

20世紀の歴史が物語る 外在的な普遍の危うさ

訳知り顔で一挙に未来を語る傲慢さ
 しかし、新たなパラダイムへの模索のプロセスは、マルセルの警告するように、あくまで具体性に即してたどらなければならない。
 一拳にそして訳知り顔に、人類史が目指すべきグランドデザインを提示しようなどという性急さ、思い上がりは、「抽象化の精神」の格好の餌食になってしまうにちがいない。その点は、ソ連邦興亡の歴史に照らして、ゴルバチョフソ連大統領が「20世紀の精神の教訓」として、警鐘を鳴らしていたところであります。
 その点、歴史の生き証人として、ゴルバチョフ氏はさまざまな例証を挙げていましたが、中から、世界的なオペラ歌手フョードル・シャリャーピンの、いかにも芸術家らしい機知に富んだ証言を紹介しておきます。
 「不幸にも、われらがロシアの"建設者たち"は、ほどよい、いかにも人間的なプランにしたがって、平凡な人間向きの建物を建てるところまで、自分を凡人化しようとはしなかった。どうしても、空中にそびえ立つ塔・バビロンの塔を造ろうとしたのです。彼らは、ごく普通の調子の健康的な歩調で、人々が仕事に行き、また、仕事から家に帰ってくるようなことに満足できなかった。彼らは、すぐに"七マイル間隔"の歩幅で未来に突進しなければならないと思ったのです。"古い世界に別れを告げよう"と思うや否や、すぐにでも、古い世界を根こそぎ何も残らないように、一掃してしまわなければならない。何よりも驚くべきは、われらがロシアの"賢人たち"が何でも知っているということなのです。彼らは、――(中略)――兎にマッチのつけ方を教えるにはどうすればいいかも知っている。その兎が幸せであるためには、何が必要であるかも知っている、そして二百年後のこの兎の子孫が幸せであるためには、何が必要であるかも知っている」(『二十世紀の精神の教訓』、『池田大作全集第105巻』所収)と。
 やや長い引用になりましたが、「抽象化の精神」の虜になった人間が、いかに民衆の具体的生活、生活実感からかけ離れたモンスターと化すかを、カリカチュアライズ(戯画化)しながら、活写しております。
 「ほどよい、いかにも人間的なプラン……」「ごく普通の調子の健康的な歩調……」とは、マルセルいうところの具体性と重なります。この具体性の世界から足を踏み外し、「抽象化」に魅入られてしまうと、思わぬしっぺ返しを受けざるをえない。


人間社会を蝕む「隣人の否定」
 アイトマートフ氏も私との対談で取り上げていた有名なエピソードですが、スターリン時代、パヴリック・モロゾフという少年が、父親が富農(クラーク)と親密であることを、当局に密告した。父親は犠牲になり、少年は、怒った親族の手で殺されるが、逆に当局からは、社会主義少年英雄として銅像まで建てられ、宣揚された。――イデオロギーという「抽象物」が、親子の情愛という「具体的」なモラルを飲み込んでしまった一例であります。
 マルセルは、その一方でアメリカに代表される産業文明、機械文明の病理にも容赦しませんでした。「まさしくテクノクラシーこそ、何よりも隣人の抽象化をなして、ついには隣人を否定するところに成立つ」(前掲『マルセル著作集6』)と。
 半世紀たった今日、テクノクラシーの延長上にある金融工学を駆使した金融商品で巨額の利益を追い求める一握りの富者が、貨幣という「抽象物」の化身さながらに、膨大な貧者に目もくれず巨万の富を独占している惨状が、マルセルの切っ先を逃れることができるでしょうか。「隣人の否定」の上にしか成り立たないような繁栄など長続きするはずがないし、また、させてはならない。
 私は、まだソ連邦が存続していた20年前のこの提言で、普遍的な視座、理念へのアプローチは、「外在的」あるいは「超越的」なものであってはならず、徹して人間に即した「内在的」なものでなくてはならないとして、「内在的普遍」ということの重要性を訴え、多くの識者の賛同をいただきました。
 イデオロギーや貨幣の普遍性とは、まさに「外在的」「超越的」普遍性であり、「抽象化の精神」の産物なるがゆえに、具体的存在としての人間や社会を蚕食してやまないのであります。私の申し上げる「内在的普遍」とは、その対極に位置しており、徹して具体性の世界に根を下ろし、その内側からのみ探り当てることが可能となるであろう普遍的な視座、理念のことであります。
 課題は身近にあります。身近で具体的なところにこそあります。一昨年来、日本ではドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』(亀山郁夫訳、光文社)がベストセラーになり、話題を呼びましたが、その中で、無神論者の次兄イワンが、弟のアリョーシャにこう語る場面があります。
 「どうすれば身近な人間を好きになれるのか、おれはいちどだって理解できたためしがないのさ。おれに言わせると、身近な人間なんてとうてい好きになれない、好きになれるのは遠くにいる人間だけ、ってことになる」と。
 もとよりこれは逆説であって、愛を論ずる場合、遠い抽象的な対象に対してならば、さしたる抵抗感もなく、口にすることができる。しかし、身近な者、とくに自分とそりの合わない人間となると、そうはいかない。そういう人を愛するには、極論すれば山上の垂訓〈注3〉に象徴されるような全人格を賭した精神的格闘、魂の回心劇を要するはずだ。身近な「一人」とは、その意味で人間愛や人類愛の真価を問う試金石であり、リトマス試験紙なのである――イワン一流の逆説であり、皮肉であります。「抽象化」を待ちうける落とし穴であって、仏典では「一人を手本として一切衆生平等」(御書P564)と、その点を厳しく戒めているのであります。
 語句の解説
〈注3〉山上の垂訓
 新約聖書「マタイによる福音書」の第5章から第7章に記されたキリストの教え。「右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい」「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」「自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい」などの教えが説かれている。
〈2009-1-26〉

 【大白蓮華 2009-04 P108〜P134 抜粋】