第34回「SGIの日」記念提言 13-4

◇「人道的競争へ 新たな潮流」-VOl.4

人道に基盤を置く競争へのパラダイム転換が不可欠

「理念」に基づく「世界像」の探求を
 ところで、サルコジ仏大統領のブレーンであるジャック・アタリ氏は、『21世紀の歴史』(林昌宏訳、作品社)で端的に分析しています。いわく、「現状はいたってシンプルである。つまり、市場の力が世界を覆っている。マネーの威力が強まったことは、個人主義が勝利した究極の証であり、これは近代史における激変の核心部分でもある」と。
 すなわち、グローバルな拝金主義とは、半面、あらゆるしがらみから自由になった個人主義の勝利であり、「貨幣」の抽象的普遍性は、労働力商品としての「個人」の抽象的普遍性とコインの表裏を成しているということでしょう。いうまでもなく、この個人主義をベースに、自由や人権等の普遍的理念も形成されてきたのであり、資本主義と近代民主主義は、かなりの部分で重なっている。
 今、資本主義や民主主義を内実とする近代社会のシステムが、抜き差しならぬ袋小路にあるとすれば、何としても、それに代わる普遍的な視座、往時のプロレタリア国際主義〈注2〉の轍を踏むことのない新たな理念の地平を切り拓かねばならない。危機回避のための差し迫った対応は当然のこととして、より巨視的な展望に立った、例えば、マックス・ヴェーバーが、「人間の行為を直接に支配するものは、利害関心(物質的ならびに観念的な)であって、理念ではない。しかし、『理念』によってつくりだされた『世界像』は、きわめてしばしば転轍手として軌道を決定し、そしてその軌道の上を利害のダイナミックスが人間の行為を推し進めてきた」(大塚久雄・生松敬三訳『宗教社会学論選』みすず書房)と述べたような時代精神が、今こそ構想されねばならないでしょう。善かれ悪しかれ、地球社会のグローバル化は、そこまで進んでいるからです。


100年以上前の先見的な発想
 そこで私が、資本主義の袋小路を抜け出すための発想の転換というか、新たなパラダイム・シフトへのヒントとして提唱したいのが、創価学会牧口常三郎初代会長が、100年余り前に32歳で世に問うた『人生地理学』で提起した「人道的競争」という概念であります。
 牧口会長は、人類史を俯瞰しながら、生存競争は軍事的競争、政治的競争、経済的競争をへて、これからは人道的競争を目指すべきだと訴えました。
 もとよりそれらは、截然と区分けできるものではなく、例えば軍事的背景をもった経済的競争もあれば、逆もまた真である、といったふうに、多くの場合、輻輳し重なりあいながら、漸進的に変化を遂げてくる。その過程を丹念にかつ大胆にたどってみれば、紆余曲折をへながらも、人類は凡そそのところ、その方向を目指しているし、そうあらねばならない。――こうして牧口会長は、超歴史的観点からではなく、学者らしく、歴史の内在的発展の論理をたどりながら、「人道的競争」という帰結に至っているのであります。
 その中身に目をやれば、短い記述のなかに、今なお新しいというよりも、時とともに輝きを増す洞察がちりばめられております。
 例えば、「武力若くは権力を以てしたると同様の事をなしたるを、無形の勢力を以て自然に薫化するにあり。即ち威服の代わりに心服をなさしむるにあり」(『牧口常三郎全集第2巻』第三文明社。現代表記に改めた)と。
 このくだりなど、私の知友に引き寄せていえば、何度かお会いしたハーバード大学ジョセフ・ナイ教授の「ソフト・パワーとは何なのか。それは、強制や報酬ではなく、魅力によって望む結果を得る能力である」(山岡洋一訳『ソフト・パワー』日本経済新聞社)との指摘と、瓜二つではないでしょうか。
 また、牧口会長の言葉に「要は其目的を利己主義にのみ置かずして、自己と共に他の生活をも保護し、増進せしめんとするにあり。反言すれば他の為めにし、他を益しつつ自己も益する方法」(前掲『牧口常三郎全集第2巻』)とあります。
 これは、アメリカの未来学者へイゼル・ヘンダーソン博士の提唱する"Win−Win World"(皆が勝者となる世界)と強く響き合っていないでしょうか。あらためて、若き牧口会長の洞察に思いを致さざるをえないのであります。
 残念ながら、その後の歴史は牧口会長の期待を裏切ってしまったが、100年の歳月を閲した今こそ、「人道的競争」という先見的着想、ビジョンへと、パラダイム・シフトしていくべき"時"であると声を大にして訴えたいのであります。
 なぜなら、指摘するまでもなく、資本主義のもたらす弊害を除去するために、社会主義が標榜した「平等」「公正」等のスローガンは、国内的にも国際的にも、まさしく「人道」、ヒューマニズムに立脚した理念以外の何物でもないからであります。制度としての社会主義の失敗ともども、それらをも葬り去ってよいものでは、決してない。そうであっては、なぜ社会主義運動が、人々とくに若者たちの心をとらえ、一時は地球の3分の1までを席巻するに至ったのかという、20世紀の貴重な教訓までも忘却の淵に沈めてしまいます。
 正しい理念を標榜しながら、なぜ社会主義は蹉跌を余儀なくされたのか?
 今さら論ずるまでもないことですが、本論に即して一言でいえば、牧口会長が「苟くも天然、人為の事情によりて自由競争の阻礙せらるる所。是れ沈滞、不動、退化の生ずる所」(同)と喝破した、人間社会の活力の源泉である「競争」的側面を、あまりにも蔑ろにしてしまったからだといってよい。階級をなくし外的条件さえ整えれば、人間らしい社会が実現するかのごときバラ色の未来像に寄りかかりすぎました。
 エゴイズムの赴くままの野放図な自由競争は、弱肉強食の社会ダーウィニズム(自然淘汰主義)に陥りますが、適正な枠組みとルールに基づく競争は、人間と社会に活力をもたらします。それ故に、競争的側面を直視しつつ、むしろ人道という価値を基盤におく競争に転換し、「人道」と「競争」の両方の価値を相乗的に顕現させようとする「人道的競争」こそ、21世紀を拓きゆくパラダイムの先駆けたりうるものではないでしょうか。
 語句の解説
〈注2〉プロレタリア国際主義
 プロレタリアート(労働者階級)の利害は国境を超えて一致し、国際的に団結しなければならないという思想。しかしソ連が、1968年のチェコスロバキア侵攻や79年のアフガニスタン侵攻を、その思想の名のもとに正当化して理念的に失墜し、その後、冷戦構造の崩壊で体制的にも終焉した。
〈2009-1-26〉

 【大白蓮華 2009-04 P108〜P134 抜粋】