「君子は行くに径に由らず」

 戦後日本を代表する人物・吉田茂元総理の貴重な遺品が、このほど、池田名誉会長に届けられた。これは8月15日の「終戦の日」にあたり、直系の令孫から学会本部に届けられたものである。
 「戦後を作った政治家」と称される吉田茂氏(1878〜1967年)。
 第2次世界大戦後の昭和21年(1946年)から29年(54年)にかけて5度、総理大臣を務め、通算2,616日間、在任(回数は史上1位、日数は戦後2位)。
 敗戦の後、占領下の混乱のなか、独立、経済復興へ、新生日本の舵をとった。
 世論調査で「最も尊敬する人物」の第1位に挙げられたこともある。
 今回、届けられたのは、氏の書がしるされた袱紗と、愛用していた十徳ナイフ。
 書は、次男の正男氏の尉官記念に、吉田茂氏がしたためたもの。正男氏は、東北大学などで教壇に立った。
 「君子は、行くに径に由らず」---『論語』の一節を踏まえた言葉である。
 ”君子たるものは、道を行くときに、小道を選ばない。近道や抜け道は多くの場合、行き詰まる。大道をまっすぐに、堂々と進んでいかねばならない”との意。
  (中略)
 「君子は、行くに径に由らず」。この言葉は、氏の生き方そのものであった。
 20年以上にわたり外交官としても活躍した吉田氏は、回想録にこう綴っている。
 「外交は小手先の芸でもなければ、権謀術数でもない。(中略)大局に着眼して、人類の平和、自由、繁栄に貫献するの覚悟を以て、主張すべきは主張し、妥協すべきは妥協する。そして列国の間に相互的信頼と理解とを深めてゆかねばならぬ」(『回想十年』東京白川書院、現代表記に改めた)
 戦時中は、ナチス・ドイツとの協定に終始、反対。軍部との対立も辞さず、平和交渉を間断なく続けた。終戦直前、憲兵隊に逮捕され、代々木の陸軍監獄で獄中生活も送った。
 戦後、外務大臣として連合国軍総司令部(GHQ)のマッカーサー最高司令官との交渉役等を務め、昭和21年、内閣総理大臣に就任。
 昭和26年9月8日、自由主義諸国と「サンフランシスコ講和条約」を調印した。これは戦後日本の針路を決める大きな分岐点となった。
 米国から再軍備の要求を受けるも、これを拒否し、復興の基盤づくりに尽力した。
 さらに、次の日本を担う人材を多数、育成。積極的に若い人材を登用し、後に総理大臣となった池田勇人佐藤栄作ら「吉田学校」と呼ばれる人材群を輩出した。

【8月16日付 聖教新聞