乞眼の婆羅門

 一生成仏という自身の崩れざる幸福境涯を確立し、万人の幸福と平和の道を開くには、広宣流布の「誓願に生き抜かなければならない。だが、そこには、大難が待ち受けている。ゆえに、「不退の心」が不可欠となる。
   ――<略>――
 そこで負け、信心から離れてしまえば、退転の道に堕していってしまうことになる。
 この「開目抄」では、舎利弗などの退転の事例があげられている。
 ―― 過去世において、舎利弗が六十劫という長い長い間、菩薩道を修め、人に物を施す布施行に励んでいた時のことである。
 婆羅門(司祭階級)の一人が現れ、舎利弗に「眼をくれ」と乞うた。舎利弗は求めに応じて、自分の片方の眼を抜いて与えた。
 婆羅門は、その臭いをかいだ。
 「臭い。いやな臭いだ
 そう言って、眼を投げ捨て、踏みつけた。
 “こんな輩を救うことは無理だ もう、自分の悟りだけを考えて生きよう”
 舎利弗は、六十劫もの間、修行を重ねてきたにもかかわらず、菩薩道を捨てて、小乗の教えに堕したのだ。退転である。
 婆羅門の行為が、あまりにも非道、傲慢であるだけに、世間の法では、舎利弗がそうしたのは、仕方がないと考えるかもしれない。
 しかし、自身の心の中に法があるととらえる仏法では、相手や周囲が良いか悪いかといった、相対的な関係では物事を見ない。常住不滅なる生命の法理のうえから、“自分は何をしたのか”“自己に勝ったのか。負けたのか”に、一切の尺度があるのだ。
  【 小説「新・人間革命」 波濤41 】 抜粋