一遍の題目でも

 たとえ一遍の題目でも、全宇宙に通じます。いわんや「心」「一念」をこめた題目は、一切を揺り動かしていく。一般的にも、同じ「愛しています」という言葉でも、心がこもっているか、口先だけかでは、全然ちがう(笑い)。
 ともあれ、「わが身が妙法の当体なのだ」と深く深く確信した題目、「私は、仏の使いとして、妙法を弘めるために生きるのだ」と一念を定めた題目が、御本尊に響かないはずはない。宇宙に届かないはずはない。必ず自在の境涯になっていく。
 もちろん、何事においても、初めから"達人"にはなれません。さまざまな障壁を乗り越え、また乗り越え、進み続けてこそ、"達人"のごとき境涯が開いていく。
 信心も同じです。自分に負けて、決意がうすれていく場合もある。思いどおりにいかず、あせる場合もある。けれども、ともかく唱題し続けていく。願いが叶おうが、すぐには叶うまいが、疑うことなく、題目を唱えぬいていく。
 そうやって信心を持続した人は、最後には必ず、自分自身にとって"これがいちぱん良かったのだ"という、価値ある「最高の道」「最高の峰」に到達できる。すべてが喜びであり、使命であると言いきれる、「所願満足の人生」を築くことができる。それが妙法であり、信仰の力です。
 御本尊は、なぜ大切なのか――。それは、御本尊への「信」によって、私どもの胸中の本尊、仏界を開けるからです。
 この「御本尊」は、自身の「信心」のなかにこそある、と大聖人は仰せです。
 妙法の当体である自分自身、人間自身が大事なのです。その胸中の妙法を顕すためにこそ、御本尊が、こよなく大切なのです。

 池田SGI会長 指導選集
 幸福と平和を創る智慧 第1部[上]P120
 「7・3記念北イタリア代表幹部会」(1992年7月3日、イタリア)より