「汝須く一身の安堵を思わば先ず四表の静謐を祷らん者か」(御書P31)
自分一人だけの幸福など、あり得ない。
自分も他者も、共に幸福に! まず社会の安穏を! 世界の平和を!
そのために、何よりもまず一人ひとりの内面に、崩れざる「正義」の柱を打ち立てるのだ!
そのために、勇気の対話だ。忍耐の対話だ。破邪顕正の言論戦だ。
これが、正しい人間の理想の道ではないか。
「立正安国論に始まり立正安国論に終わる」と言われる通り、日蓮大聖人の御一代の大闘争は、ひとえに立正安国の実現のためであった。
創価三代の師弟も、「立正安国」の精神を、わが魂として戦ってきたのである。
その根幹は、苦悩の民衆に同苦する慈悲であり、また、民衆を不幸に陥れる邪悪と戦う破折精神だ。
「立正安国論」には、峻厳な破折の炎が燃えている。
「悪侶を誡めずんば豈善事を成さんや」(御書P21)、「唯須く凶を捨てて善に帰し源を塞ぎ根を截べし」(御書P25)……。
不幸の源を塞げ! 世の濁乱の根を断て!
「破邪」なくして「立正」はない。
心の底から民衆の幸福を思うからこそ、勇敢に邪悪と戦うのだ。戦わないのは無慈悲であり、戦えないのは臆病である。
なぜ、学会が発展したか。悪と戦ったからだ。声も惜しまず、正義を叫んだからだ。その戦いで、現実に民衆を救ってきたからだ。
【大白蓮華 2008-6 P82〜P83】
(随筆 人間世紀の光 74 『「立正安国」の悲願』 2005.4.12 抜粋)