「いまだ こりず候」
山を越え
谷越え 川越え
朗らかに
忍耐王者は
今日も勝ち抜け
戦いは粘りである。どんな小さなことも、我ら創価の師弟は真剣に、そして粘り強く戦い続けてきた。ゆえに勝ち抜いたのだ。
「不撓不屈の精神をかたむければ、何でも楽しい」とは、十九世紀フランスの作家フローベールの清々しい名言である。
広宣流布のため、立正安国のためという、人間として最極の大目的へ向かって、わが誉れの友は、春夏秋冬、学会精神を炎と燃やし、前進している。師弟して歩みゆく、尊き人間革命の並木道である。
日蓮大聖人は、厳然と仰せになられた。
「此法門を日蓮申す故に忠言耳に逆う道理なるが故に流罪せられ命にも及びしなり、然ども いまだ こりず候」(御書P1056)と。
文応元年(1260年)七月、蓮祖は「立正安国論」をもって、烈々と社会に警鐘を打ち鳴らされた。以来、松葉ケ谷の法難、伊豆流罪、小松原の法難、そして竜の口の法難・佐渡流罪など、最も正しき故に、最も険しき大難の連続であられた。
しかし、御本仏は微動だにされない。一切の魔軍を、悠然と堂々と「せめ返し」「押し返し」「打ち返し」ていかれたのである。
「いまだ こりず候」 ──ここに、日蓮仏法の真髄の負けじ魂がある。正義の魂は絶対にこりない。魔王の方が「こりた」と音をあげるまで、攻めて攻めて攻め抜くのだ。
勝ちまくれ
不退転の
君なれば
弁才無礙に
喜び指揮とれ
地涌の菩薩とは、「忍辱の心は決定し」「不退に住せり」と説かれる。「忍耐」そして「不退転」。その模範と光るのは、創価の尊き母である。
戸田城聖先生は、苦難と戦う友を励まされた。「負けてたまるかと歯を食いしばり、立ち上がるたびに、仏の生命は強くなる」「言うに言われぬ苦しみを味わい、乗り越えていく人こそが、真の勝利者である」
広布を阻む悪には、絶対に負けない。すべてを変毒為薬してみせる。この祈りと行動に、「能忍(能く忍ぶ)」という仏の力が湧き出ずる。
幸福の
花を咲かさむ
師弟不二
御書には「いまだ こりず候」に続いて「法華経は種の如く仏はうへての如く衆生は田の如くなり」(御書P1056)と仰せである。
私も十九歳で戸田先生の弟子となってより、平和と幸福の種を蒔く仏法の対話を、「いまだ こりず候」と世界に広げている。
デンマークの大教育者ヘニングセン博士は、創価の対話を讃え、語ってくださった。
「勇気があればあるほど対話は深まります」「よき対話が、よき世界を創るのです」
友よ、勇気と執念の声で勝利の種を! そして幸福勝利の花を!
忍耐の
攻防戦が
重なりて
勝利 勝利の
道は光
仕事も一段落いたしました。