演技的無垢

 今日は久しぶりに宝城会の任務でした。
 友好期間なのか誰も訪ねてこない会館で、法戦の後日談で盛り上がりました。
 「街場のメディア論」の昨日の続きです。

「無垢」という罪が拡がっている

 それ以上に「たちが悪い」と思ったのは、この「知ってるくせに知らないふりをして、イノセントに驚愕してみせる」ということそれ自体がきわめてテレビ的な手法だったということです。
 テレビの中でニュースキャスターが「こんなことが許されていいんでしょうか」と眉間に皺を寄せて慨嘆するという絵柄は「決め」のシーンに多用されます。その苦渋の表情の後にふっと表情が緩んで、「では、次、スポーツです」というふうに切り替わる。
 僕は、自分が狭量であることを認めた上で言いますけれど、この「こんなことが許されていいんでしょうか」という常套句がどうしても我慢できないのです。「それはないだろう」と思ってしまう。
 「こんなことが許されていいんでしょうか」という言い方には「こんなこと」に自分はまったくコミットしていませんよ、という暗黙のメッセージが含まれています。「こんなこと、私はまったく知りませんでした。世の中ではこんなにひどいことが行われているなんて……」という、その技巧されたイノセンスに僕はどうも耐えられないんです。あちらに「バッドガイ」がいて、こちらに「グッドガイ」がいる。この「こんなことが許されて……」という技巧された無垢、演劇的な驚愕は「グッドガイ」の記号として使われている。
 捏造番組についての新聞の事件報道や、テレビをはげしくバッシングしている新聞の社説を読みながら、「新聞はすっかりテレビ化してしまったなあ」と思いました。テレビのコメンテーターと社説の口ぶりがだんだん似てきたからです。この先、メディアの信頼性を失わせるような重大な問題が起きたときに、たぶんテレビも新聞も「こんなことが起きるなんて信じられない」という顔つきをしてみせるんだろうと思います。
 でも、僕は報道に携わる人間にとっては「こんなことが起きるなんて信じられない」というのは禁句だと思うんです。それは口にすべきではない言葉でしょう。「知らなかった」ということを気楽に口にするということは報道人としては自殺行為に等しいと思うのです。
 それは先ほどから繰り返し言っていますように、「世界の成り立ち」について情報を伝えることがメディアの第一の社会的責務だからです。人々が「まだ知らないこと」をいち早く「知らせる」のがメディアの仕事であるときに、「知らなかった」という言い逃れが節度なく濫用される。けれども、「知らなかった」という言葉はメディアの人間としては「無能」を意味するのではないですか。
 「知っておくべきことを知らないでいた。たいへん恥ずかしい」と言うなら、わかる。でも、そうではなかった。いずれ「こんなこと」が起きるだろうと実は前から思っていたのだけれど、報道しなかった。でも、「知っていたけれど、報道しなかった」と正直に言ってしまうと、「なぜ報道しなかったのか」と責任を間われる。新聞とテレビの「もたれ合い」の構造そのものが白日の下にさらされてしまう。そのような事態に巻き込まれるのが厭だから、「知りませんでした。聴いて、僕も驚きました。まさか、『こんなこと』がほんとうにあるなんて……」という芝居をしてみせる。
 責任逃れのためとはいいながら、ジャーナリズムが「無知」を遁辞に使うようになったら、おしまいじゃないだろうかと僕は思います。世の中の出来事について、知っていながら報道しない。その「報道されない出来事」にメディア自身が加担している、そこから利益を得ているということになったら、ジャーナリズムはもう保たない。(本文より)