願兼於業(がんけんおごう)

一切を前進と成長の力に転ずる。 日蓮大聖人は、「開目抄」で「小乗の菩薩の未断惑なるが願兼於業と申して・つくりたくなき罪なれども父母等の地獄に堕ちて大苦を・うくるを見てかた(形)のごとく其の業を造って願って地獄に堕ちて苦に同じ苦に代れるを悦びとするがごとし」(御書P203)と、広宣流布誓願に生きるうえでの受難の意義を「願兼於業」とされ、法華経の行者の誉れとされています。
 願兼於業は、法華経法師品の文を中国の妙楽大師が「法華文句記」巻8で釈した言葉で、「願いが業を兼ねる」と読みます。
 衆生を救済しようとする願いの力によって、敢えて悪世に生まれて法華経を弘通することです。過去世の修行の功徳によって、安穏な境涯に生まれられるところ、苦悩に沈む一切衆生を救済するために、敢えて自ら願って悪世に生まれ、民衆の苦悩を一身に引き受けて、仏法を弘通することです。
 願兼於業の原理こそ、宿命転換論の真髄です。
 池田名誉会長は、『御書の世界』で次のように語っています。
 「マイナスの罪障をゼロに戻す。そうしたことのために宿業を凝視しているのではありません。マイナスの罪障を大いなるプラスに転ずるのです。それが日蓮仏法の宿業転換です。それを可能にするのが、万人の生命に内在する仏性です。『宿業の凝視』は、『仏性への徹底した信』に裏付けられているのです」(第2
巻P312)。
 自身の今世の使命を定め、誓願に生きる人にとって、宿業や宿命は、自らの使命を果たすための原動力ではあっても、決して足かせや重荷ではありません。生きる意味を明確にし、より良く生きようとする人生の力であるのです。
 今回の講義で名誉会長は、「仏法者にとっての敗北とは、苦難が起こることではなく、その苦難と戦わないことです。戦わないで逃げたとき、苦難は本当に宿命になってしまう」と語っています。
 宿業や宿命を"運命"として受け入れることを"強要"するのではなく、主体的に自身の宿命を見つめ、とらえ直し、使命に変えていく。ここに、宿命を使命に転じ、一切の苦悩をも前進と成長の原動力とする視点があるのです。
【2005.7.6 創価新報