師匠の「心」

 「陰徳あれば陽報あり」(御書P1178)と言われるように、隠れた善行は明確な善の報いとなって必ず表れる。陰で黙々と広宣流布のために献身してきた苦労は、いつか必ず、大功徳となって花開く。
 仏法は生命の厳たる因果の法則であるからだ。
 伸一は「冥の照覧」という法理に則り、広宣流布に尽くし抜いてくれた同志を表彰することで、その敢闘を讃え、労をねぎらい、深い感謝の心を伝えたかったのである。
 日興遺誡置文には「身軽法重の行者に於ては下劣の法師為りと雖も当如敬仏の道理に任せて信敬を致す可き事」(御書P1618)と認められている。
 --- 一身を賭して法を弘める行者に対しては、いかに身分が低い法師であったとしても、まさに仏を敬うようにするというのが道理であり、最大の尊敬を払わなくてはならない、というのである。
 広宣流布の功労者、実践者、智者を敬いなさいという、こうした遺誡は、二十六箇条のうち四箇条もあるのだ。
 伸一は、この精神のうえからも、広宣流布に多大な尽力をされてきた方々を、顕彰しなくてはならないと思った。
 また、大聖人が「ほめられぬれば我が身の損ずるをも・かへりみず…」(御書P1360)と仰せのように、讃えられれば、また頑張ろうというのが人間の心の常である。
 表彰が受賞者の励みとなり、さらに決意に燃えて奮闘していただけるなら、それがまた、前進の新しい活力となる。
 第二代会長の戸田城聖も、広宣流布のために奮闘した弟子たちをいかに賞讃し、励ますか、常に心を砕いていた。
 「論功賞罰はきちんとせよ」というのが、戸田の教えであった。
 戸田城聖は、広宣流布のために、さまざまな難に遭い、頑張り抜いてきた同志がいると、励ましのメダルを贈った。
 また、折々に、句や和歌を作って、功績のあった弟子たちに贈っては、讃え、励ましてきた。
 さらに戸田は、いろいろな局面で青年たちの見事な働きを目にすると、さまざまな物を授けた。時には、自分が身につけていた時計や金の鎖などまで贈り、賞讃、激励することもあった。
 この戸田の精神を、山本伸一は、そのまま継承してきた。青年部のリーダーであった時から、同志の賞讃と励ましには最も心を配ってきたのだ。
 地方指導に行く際にも、貯金をはたいてノートや筆記用具などを大量に購入し、健気に奮闘する同志にプレゼントし、激励してきた。
 持ってきた品々がなくなると、彼もまた、自分が使っている万年筆や、ネクタイ、時にはベルトまで贈って励ますことさえあった。
 一度の励ましや顕彰が、人生の大きな転機となることもある。ゆえに伸一は、物を惜しむ気にはなれなかった。
 かつて戸田城聖は、彼の事業が苦境に陥り、その再建のために夜学を断念した伸一に、万般の学問の個人教授を続けた。「戸田大学」である。
 伸一は懸命に学び、ことごとく吸収していった。ある講義が修了した時、戸田は、机の上にあった一輪の花を取って、伸一の胸に挿した。
 「この講義を修了した優等生への勲章だ。伸一は、本当によくやってくれているな。金時計でも授けたいが、何もない。すまんな…」
 広宣流布の大師匠からの真心の賞讃である。伸一は、その花こそ、世界中のいかなるものにも勝る、最高に栄誉ある勲章であると思った。感動を覚えた。自分は最大の幸福者であると感じた。
 伸一は、後年、世界各国から、多くの国家勲章を受けている。また、大学・学術機関からは、二百数十という世界最多の名誉学術称号を受章することになる。
 彼は、その根本要因こそ、生命の因果の法則のうえから、師匠より賜った一輪の花に対する感謝と、ますますの精進を誓った「心」にこそあったと、深く、強く、確信しているのである。

 【小説「新・人間革命」共鳴音3、4抜粋】