毎日、水を注ぐ

新池御書 弘安3年 59歳

 始より終りまで 弥 信心をいたすべし・さなくして後悔やあらんずらん
 (御書P1440 L5)

現代語訳

 始めから終わりまで、いよいよ信心をすべきである。そうでなければ、後悔するであろう。

 必ず結果は現れる

 何かに取り組んでいたとしましょう。
 大抵の場合、頑張っていても結果が出るまでに時間がかかるもの。
 最近はせっかちな人が多いようで、結果が出ないと、すぐに投げ出してしまうことが多いようです。
 そもそも結果というものは、必ずしも努力の量に比例して、目に見える形に現れるものではないのです。
そういうものだと思っていかないと、必ず失敗をしてしまいます。「唱題をしていても……」「学会活動をしていても……」「こんなことをしていても……」。いやになって投げ出せば、せっかく積み上げてきたものが水の泡になってしまいます。
 こんな例え話があります。
 中身が見えない一升瓶に、毎日、少しずつ、おちょこで水を注いでいく。どれだけたまったのか、あとどれだけ注げばいいのか、それは分かりません。でも、いつの日か、一升瓶は水で満杯になって、注いだ分、あふれるはずです。
 それまで、何の変化もなかったものが、ある日を境にして、目に見えて変化が現れるようになるのです。
 おちょこの水は唱題です。あふれ出るのは唱題の功徳です。
 まして宿命転換や一生成仏という生命変革の作業はなおさらです。「始より終りまで」の「弥(いよいよ)」の挑戦を続けていくしかない。必ず結果は出るのです。

 中だるみの特徴

 とはいえ、"中だるみ"は人の常です。しかも、"中だるみ"は気づきにくい。
 日蓮大聖人は、この一節の直前に、中だるみの時の信心の特徴を挙げられています。
 その1つは、「自慢して悪見をなす」です。すべてが分かったような気になって、自分なりの理屈で信仰をとらえ、自分勝手な意見を言い出すことです。
 平たく言えば、師匠が教える正しい信心を、"やらない言い訳"ばかりが思い浮かぶことでしよう。
 病苦の克服、経済苦、人間関係のしがらみ、家族の悩み……。頑張っても、頑張っても、すぐに結果は出ません。それが普通です。だから信心に励んでいるはずです。でも、もしかして、明日になれば、一升瓶から水があふれ出すかもしれないのです。

 いい人に会おう

 にもかかわらず、つい心に"やらない言い訳"が思い浮かぶ人に、大聖人は仰せです。「後悔やあらんずらん」――必ず後悔するであろう、と。くじけてほしくない、不幸になってほしくない、それゆえの仰せです。
 では、そうならないためには――。大聖人は、この一節の直後に、アドバイスされています。「弥 法の道理を聴聞」しなさい、と。
 つまり、いい人に会いに行くこと。そして語り合うことです。言い訳をしたくなったら、これが大事です。
 池田名誉会長は語っています。
 「青年は、ひとりぼっちになるな。良き先輩、良き友人、良き後輩とともに、連帯して生きていくことだ。その信頼と友情の一歩一歩が、勝利の足跡となっていくのである」

 【大白蓮華 2010-6 P108〜P109 社会で光る より】


 選挙戦も終わり、仕事も落ちついてきたので、本日、5月末の健康診断で、眼底に要精密検査項目(左緑内障性乳頭陥凹)があったので、出勤前に眼科に行ってきました。
 検査の結果、幸い、今現在、緑内障の疑いはないとの診断。ホッと一息
 これからも、早期発見のため、年に1回か2回の健康診断をお勧めしますとの事。
 6月9日に孫(男子)が生まれて、おじいさんになりました。