責任ある言論を!

民主主義の責任ある言論を

 民主主義社会の主役は「民衆」だ。
 民衆のエネルギーは、地域・社会、そして国をも動かすほど大きい。
 民衆の心情に影響を及ぼす政治家やマスメディアの論調は、時として国の命運を左右するほど重要になる。世論を誤った方向に誘導すれば、民主主義そのものの破壊にもつながりかねない。
 佐藤卓己京都大学准教授(メディア史)によれば、戦前まで「世論」とは単に「世間に漂う気分」を指し、不確かな危ういものとみなされていたという。この世論の対語には「輿論」があった。「輿」とは「こし」と読み、「担ぐ物」のこと。つまり輿論は「責任を担う公論」を意味したのだ。
 戦後、「輿」の字が使われなくなるにつれ、世論への警戒心も薄れていった。今の日本が、情緒的な雰囲気にとかく流されがちであるだけに、佐藤氏は“民主主義への信頼を保ち続けるにも、輿論復権が不可欠だ”と論じている(本紙2月24日付8面)。
 民衆への責任。人道への責任。未来への責任。現代は、こうした本分を忘れ、その場その場の風潮や政局などに流された無責任の論が横行していないか?
 近代の黎明期、世論の危うさをいち早く見抜いた福沢諭吉は、こう綴った。
 輿論の担い手は“広く世界の事情を知り、(中略)世論に束縛されることなく、高尚な地位から過去を振り返り、活眼を開いて後世を先見しなければならない”と(『文明論之概略』)。
 「輿論」とは、世界と未来への開かれた眼をもつ対話で創られるものなのだ。
 庶民の幸福を願い、生活実感に根ざした草の根の声を、メディアは正しく伝え、広げていかなければならない。
 戸田第2代会長は「信なき言論は煙のごとし」と常々、強調していたが、まさに今求められているのは「信念ある言論」なのである。
 池田名誉会長の日中国交正常化提言40周年に寄せて、中国・吉林大学の孟慶福教授は「第二次大戦後、世界の多くの国や人々は平和を希求していた。その潮流を熟知していたからこそ、驚くべき先見性の提言が生まれたのだろう」(「潮」10月号)と賞讃していた。
 真の言論(輿論)は、民衆の沸騰する対話から生まれる。仏法という先見の大哲学を実践する我らこそが、未来を開く言論闘争の先駆を切りたい。

 【10月8日付 聖教新聞 社説より】