「負けじ魂」ここにあり
負けないと
決めた笑顔の
尊さは
栄光かがやく
勝利の人かな
「何くそという気持で活動をつづけることによってのみ、くじけずにそれを切りぬけることができる」
これは、ドイツの大文豪ゲーテの心意気であった。どんな苦境に立たされようとも、そこから大胆に反転攻勢に打って出るのだ。
仏法では、この現実の社会は「娑婆世界」であると説いている。「娑婆」とは「堪忍」、すなわち「堪え忍ぶ」という意義になる。誰人たりとも、押し寄せる苦難との戦いだ。それを耐え抜き、勝ち越えられるかどうか。人生は「負けじ魂」の勝負といってよい。
日蓮大聖人も「負けじ魂」を重んじておられた。いな、御書の全編を通じて、燃えたぎる「負けじ魂」が拝されてならない。
「極めて負けじ魂の人であり、同志を大切にする人である」(P986、通解)とは、壮年の誉れ・四条金吾を讃嘆される御聖訓であった。
能く忍ぶ
これこそ
仏と言うなれば
我らの忍耐
地涌の証か
私は、わが創価大学の創立に際し、一対のブロンズ像を贈った。
十九世紀フランスの彫刻家ファルギエールの力作である。毅然と働く鍛冶工と印刷工を、天空へ舞いゆく天使が讃える英姿だ。
台座に刻んだ「労苦と使命の中にのみ人生の価値は生まれる」との言葉に、世界からお迎えするトップリーダーの方々から深い共鳴を寄せていただくことが多々ある。その道の第一人者は、皆、それそれに血の滲む「労苦」を重ねておられるからに違いない。
要領よく苦労を避けて泳ぐ人生に、何の価値が生まれようか。
いわんや、青年はすべてをかなぐり捨てて、泥まみれになり、歯を食いしばって苦難に耐え、白らの使命を果たしゆくことだ。その不屈の「負けじ魂」こそが、青春の最高の勲章となる。
仏の異名は「能忍(能く忍ぶ)」。偉大な忍耐の力によって、ダイヤモンドの如き金剛不壊の生命が鍛え上げられるのだ。
負けるなと
断じて指揮とれ
師の声は
己の生命に
轟き残らむ
わが師・戸田城聖先生は、苦悩の友を徹して励まされた。
「人間は誰しも、絶望的になる時がある。しかし、それに耐えて、乗り切ってしまえば、後になれば何でもないものだ。
妙法の威力は、何ものも遮ることなどできない。『さあ、来い!負けてたまるものか』との大覚悟で立ち向かえば、魔は退散する。何があっても、吹っ飛ばしていけ!」
たとえ、一時は負けたような姿であったとしても、最後に勝てばよい。最後に勝っていけるのが、「法華経の兵法」である。一番、大変な時にこそ、一番、変毒為薬して、境涯を開くことができる。
牧口先生も、戸田先生も、御聖訓通りの三類の強敵を迎え撃ち、そして競い起こる三障四魔を打ち破られた。どんな大難があろうとも、絶対に負けない。一切を跳ね返し、新たな広宣流布の勝利と拡大の道を広々と開く。これが創価の師弟の「負けじ魂」である。
なかんずく、けなげな創価の母たちは、「勝つことも大事であるけれども、それ以上に何があっても負けない一生を!」と心を定めて、祈り抜き、戦い抜いてくれた。だからこそ、勝ったのだ。
アメリカ実践哲学協会のマリノブ会長も語ってくださった。
「創価の師弟が教えているように、人間には白らの限界を乗り越えていく力が備わっています。最悪の環境から最良の結果を引き出すことができる存在なのです」
昭和五十三年の秋、わが創価学園生たちが新しい愛唱歌を作った。題名は「負けじ魂ここにあり」。私は、四番の歌詞を綴り贈った。
♪母よ我が師よ 忘れまじ 苦難とロマンを この我は
いつか登らん 王者の山を 負けじ魂 いつまでも
登るべき山は眼前にある。険しければ険しいほど、挑戦の心は誇り高い。さあ、歌声も朗らかに、勝利の頂へ、勇気の一歩を!
辛くとも
最後の勝利の
幸福は
断じて来たると
今日も楽しく