4.24 師弟の魂・大関西


 私が会長を辞任し、名誉会長になった、その晩であった(一九七九年四月二十四日)。
深夜の高速道路を、二台の車が東京へ疾走していた。
乗っているのは、関西の青年たち。誰かに言われたわけではない。ただ、私が会長を辞めたと聞いて、居ても立ってもいられず飛び出した。
車中、一睡もせず、翌朝早く東京に到着。そこで先発していたメンバーも加わり、藤原武君をはじめとする、金城会草創の七人の英才が、息せき切って私のところに駆けつけてくれた。
「我々は、池田先生とともに戦うんや!」と。
真剣な、嵐の中に毅然として、真夜中に走り飛んでくれた、その正義の叫びと、若鷲の翼の姿が、嬉しかった。
私は、この七人に、”関西の七勇士”という名前を贈った。
この関西の七人の弟子は、今も現役として、広布の第一線で悠然たる指揮を執っている。
    ◇
二十年前の、あの日のことは、今でも、心深く動くことはない。
あの日、あの時、私は、彼らに言った。
「わざわざ遠くから来てくださって、ありがとう。
何も心配いらないよ。恐れるものは何もないよ。私は厳然としていくから!」
その時の、彼らの雄姿は、今でも消え去ることはない。
「偉大な弟子をもつことは、最高に嬉しいことだ」とは、戸田先生の口癖である。
今、私は、嵐と忍耐のなかで、同じ思いをした。真っ暗な嵐のような日々であった。
しかし、彼らに、私は強く語った。
「将来の希望を持て! 不安のために動揺するな! これが、我らの魂である。
忍耐強く生きろ! 悠然として、自然の成り行きに任せよ! 一段高い丘から、すべてを見つめよ!」
彼らは、この一語一語から、何を意味するかという真実を汲み取って納得したようである。
【1999年3月1日付 聖教新聞 随筆 新・人間革命64
                           師弟の魂・大関西 常勝の空高く 錦州城 抜粋】


今日は屈辱の4.24から27年、しかし、新聞には何も触れられていない。

当時、私は就職し赴任したばかりの愛媛県の現場事務所で勇退を知った。
飯場のおばさんが学会員であったおかげで、すぐに事務所に聖教新聞を入れていただいていた。
先に来ていた所長から、「池田さんやめたで」と聞いてびっくり、新聞を読んでも訳がわからなかった。
夜(その日だったか記憶は曖昧)に父に電話をして
「どう、なったん」
「ようわからんなぁ、けど、会長やろが名誉会長やろが先生は先生や!なにもかわらんで、そやけど、北条さんが会長になるとは思わんかったわ」
「なんでやねん?」
「なんでって、苗字が悪いやろ、北条ゆうたら大聖人いじめてんで、その北条さんが学会の会長になってんでぇ」
「えっ、それやったら南条さんやったらよかったんか?」
「そうや、四条さんでも、だれが会長でもええねん」と大笑いしました。
当時B長であった父ではありますが、今更ながら関西は先生直結だったんだと、父の微動だにしない姿を通して思います。