原水爆禁止宣言

 50年前の今日(昭和32年9月8日)神奈川県の横浜・三ツ沢公園陸上競技場に約5万人が集った第4回東日本体育大会「若人の祭典」の席上で、「原水爆禁止宣言」は発表された。

  天竜も諸君らの熟誠にこたえてか、きのうまでの嵐はあとかたもなく、天気晴朗のこの日をむかえ、学会魂を思う存分に発揮せられた諸君ら、またそれにこたえる、この大観衆の心を、心から喜ばしく思うものであります。(拍手)
 さて、今日の喜ばしさに引きかえて、今後とも難があるかもしらん、あるいは身にいかなる攻撃を受けようかと思うが、諸君らに今後遺訓すべき第一のものを、本日は発表いたします。
 前々から申しているように、次の時代は青年によつてになわれるのである。広宣流布は、われわれの使命であることは申すまでもないことであり、これは是非ともやらんければならんことであるが、今、世に騒がれている、核実験、原水爆実験にたいする私の態度を、本日はつきりと声明したいと思うものであります。(拍手)
 いやしくも私の弟子であるならば、わしの今日の声明をついで、全世界に、この意味を浸透さしてもらいたいと思うのであります。(拍手)それは、核、あるいは原子爆弾の、実験禁止運動が今世界に起こつているが、私はその奥にかくされているところの爪をもぎ取りたいと思う。
 それは、もし原水爆をいずこの国であろうと、それが勝つても負けても、それを使用したものは、ことごとく死刑にすべきであるということを主張するものであります。(拍手)なぜかならば、われわれ世界の民衆は、生存の権利をもつております。その権利をおびやかすものは、これ魔ものであり、怪物であります。それをこの人間社会、たとえ一国が原子爆弾を使つて勝つたとしても、勝者でもそれを使用したものは、ことごとく死刑にされねばならんということを、私は主張するものであります。(拍手)たとえ、ある国が原子爆弾を用いて、世界を征服しようとも、その民族、それを使用したものは悪魔であり、魔ものであるという思想を、全世界に弘めることこそ、全日本青年男女の使命であると信ずるものであります。
 願わくば、今日の体育大会における意気をもつて、この私の第一回の声明を、全世界に弘めてもらいたいことを切望して、今日の訓示にかえる次第であります。(拍手)


 文字が小さくて読めないと思いますが、上記引用文に
全文を書き込みましたのでお許し下さい。


衝撃的な「宣言」
 戸田第2代会長が「原水爆禁止宣言」を発表した当時は、まだ進駐軍のGHPが日本を離れて5年しかたっていない時期であった。
 宣言がどのような影響を与えるか、心配する向きもあった。実際に戸田第2代会長の真意が理解できない一部の幹部もいた。さまざまな意見が飛び交った。
 「死刑というのは、あまりにも過激すぎるのではないか。ただでさえ、学会は目をつけられているのに、これではさらに激しく弾圧を受けることになってしまう。しばらくは伏せておいた方がいいのではないか」
 「折伏をしていれば、自然とそうした核兵器のない社会になっていくから、平和運動や政治運動や核の廃絶運動などは必要ない。学会は折伏だけをしていればいいのだ」
 「この宣言は確かに素晴らしいが、大衆に教えることはとても難しい。だから、学者に話すとか、マスコミを招いて発表することを主体にすべきではないか」
 「どうせ、核廃絶なんて、できやしない。世界から見れば、日本のまだ小さな宗教団体の指導者が言ったことだからとそれほど重要視されないので、少々オーバーな表現でも大丈夫なのではないか」と。
 池田室長は、こうした意見を頑として、斥けた。
 翌10月号の「大白蓮華」に、「宣言」が採録された。一言一句、削り取られることなく、全文が残された(上の画像参照)。池田室長の決断であった。
大白蓮華 2007-9 】
 戸田先生が存命であった当時でさえ、最高幹部はこんな状態であったことに驚くとともに、先生の師弟不二の戦いがいかに大変であったか?
 また、御書もそうであるが、時代背景が非常に重要であることを痛感させられる。

 「あの時、先生は、『いやしくも私の弟子であるならば、私のきょうの声明を継いで、全世界にこの意味を浸透させてもらいたい』と鋭く叫ばれた。絶対に忘れることのできない、厳しき遺訓である。
 その遺言の通り、私は、先生の平和思想を、堂々と全世界に訴え続けてきた。師の教えを必ず実行する----
 それが、真の弟子の道であるからだ。
戸田先生が打ち込んでくださった平和の熱き信念は、21世紀という新時代を迎えて、いよいよ偉大なる光を放ち始めたと、私は確信する」